HRe205J 神学研究I
Autumn 2005, H-252, TuF*5, A. Morimoto
* 注意 *
日程表にありますように、9/13 は「アジア神学」についての講演で四国に行きますので、休講です。受講を考えている学生は、9/9 の第一回授業を逃さないように。もしその日欠席した人で、クラスの内容を知りたい人は、配布資料をわたしの研究室のドアポケットに入れておきますので、取りに来てください。"Initial Question" は、次回授業前日の 9/15 正午までにメールで提出すること。
OBJECTIVE
今回は、「アジア神学」を取り上げます。アジア神学は、「文脈化神学」の一部で、以前は「土着化」などと呼ばれてきた問題、つまりキリスト教と文化との折衝を扱うものです。キリスト教はその成立以来、中東世界、地中海世界、汎ヨーロッパ世界、新大陸アメリカ世界と、西回りに地球を回ってきましたが、アジアはその時代史的な地理の最先端に位置します。それぞれの文化で独自の表現を産み出してきた神学は、アジアではどのような神学を生んでいるのでしょうか。キリスト教の人口動態が変化し、世界のキリスト教徒の3分の2が非西洋に住むと言われる今日、神学も非西洋化してゆくのは当然かもしれません。さらに、アジアから見ると、これまで標準的で正統的で普遍的だと思われていたキリスト教が、実はちっともそうではなかった、ということに目を開かされます。アジア神学は、特殊からの新奇な問いに見えますが、実はキリスト教という宗教の本質を新たに問い直す根本的な神学的営為なのです。なおこれは、前回のリーヴ中にアメリカで教えたコースを学部学生のために作り直したものです。日米の学生でどのような反応の違いが出るかも、楽しみに見せてもらい
ワす。
SCHEDULE
9/9 序論
9/13 (休講)
9/16 "INITIAL QUESTIONS" 提出
9/20
9/23 (秋分の日)
9/27
9/30
10/4
10/7
10/11
10/14
10/18
10/21
10/25
10/28 (ICU祭準備日)
11/1
11/4
11/8
11/11 総括
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授業の概要説明、文献紹介
神学とはどのような学問か
(総論)
神学を「アジア化」するのか
文脈化の類型論
神学と伝統・正統
文脈化とフェミニズムの相克
宗教混淆・二重信仰
(各論)
パク:「罪」の補完概念としての「恨」
ソン:「応報思想」を超えた贖罪理解
小山:「水牛神学」と「天皇制批判」
リー:「陰陽論による三位一体論」
各論は、おそらく全部できないでしょう。
パクとソンの2人はやりたいと思います。
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TEXT
- 森本あんり『アジア神学講義』(創文社、2004年)¥3,800-
(売店等で購入すること。貧乏学生には、著者割引を考えます。)
他に、以下を挙げておきます。
- Andrew Park, The Wounded Heart of God (Abingdon Press, 1993)
- Jung Young Lee, The Trinity in Asian Perspective (Abingdon Press, 1996)
- Kosuke Koyama, Mount Fuji and Mount Sinai (Orbis Books, 1984)
- Kosuke Koyama, Water Buffalo Theology (Orbis Books, 1974; 2nd ed., 1999)
小山晃佑『裂かれた神の姿』(日本基督教団出版局、1996年)
- C. S. Song, Jesus, the Crucified People (Fortress Press, 1990)
同邦訳=ソン『イエス――十字架につけられた民衆』(新教出版社、1993年)
- Mark Mullins, Christianity Made in Japan (Univ. Hawaii Press, 1998)
同邦訳=マーク・マリンズ『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』(トランスビュー、2005年)
- Robert Schreiter, Constructing Local Theologies (Orbis Books, 1985)
- Stephen Bevans, Models of Contextual Theology (Orbis Books, 1992; 2nd ed., 2002)
REQUIREMENTS
1 授業参加
授業には必ず出席すること。発言や質疑などの積極的な参加を評価します。教科書の指定された部分を読んだ上で、自分なりの問いをもって授業に臨んでください。この授業では、私の講義とお互いのコメントをもとに、学生が相互に討議する時間をもっとも大事にします。
2 Response Paper
みなさんの授業参加を促すため、毎週<Response Paper>を書いてもらいます。火曜日の授業終了後、木曜日正午までに、Eメールで私のところに提出してください。件名に<HRe205>と入れること。自動振り分けを使いますので、件名を間違えるとゴミ箱行きになってしまいます。時間厳守。メールのタイムスタンプでそれ以降に提出されたものは、原則として読みません。メールはすべてそのまま印刷して全員に配布します。添付文書ではなく、メール本文に<テキスト>形式で直接書いてください。長さはA4用紙一枚にプリントアウトできるように、2千字以内にまとめること。内容は、その日の授業で論じられたことへのレスポンスです。金曜日の授業では、それらのいくつかを取り上げて論じます。質問形で書かれたものにはその時にお答えします。なお、これは先回の授業で試みたもので、受講者数や実際の経過を見た上で、より適切な方法があれば変更するかもしれません。提案歓迎。
なお、これは先回の授業で試みたもので、受講者数や実際の経過を見た上で、より適切な方法があれば変更するかもしれません。提案歓迎。 WebCT の利用者が多ければ、そちらを使います。WebCT なら、他の学生の Response Paper を事前に読んで共有することができるからです。
(注:今回は、結局 Blackboard を使いました。)
3 期末レポート
講義や討論を踏まえ、問題設定を明確にしたレポートを提出すること。A4用紙10枚以内。評点の配分は、授業参加が3割、Response Paperが3割、期末レポートが4割です。前回2年前に同主題を扱った時の成績は、A=9人、B=19人、C=5人、D=5人、E=0人、計38人で、GPA=2.84 でした。
最優秀レポート
今学期の期末レポートのうち、もっとも優れていた2本を掲載します。それぞれまったく異なった性格の内容ですが、どちらもすばらしいものです。わたしの評価も書き添えておきます。こういう学生たちがいることが、わたしには最大の喜びです。他の学生のみなさんも、ぜひこれらに学んでください。なお、レポートの著作権は、執筆した学生たち本人にあります。掲載を許可してくれたおふたりに感謝します。(11/22/05)
・石原野恵 「日本におけるキリスト教と罪の理解――無教会主義と罪と恨」 (MS Word: 61KB)
・石原野恵 「追加コメント」
<講評>
評価した点を列挙しておきます。内村の贖罪思想を武田清子とアウレンの類型論で分析したこと。無教会と独立学園の現状に対する危惧と、それが罪理解や贖罪理解と密接に関係しているという指摘。パクの議論に学びながらも、垂直関係を水平関係に解消しがちなアジア神学の弱点に気づいていること。また、ニーチェのルサンチマン批判を踏まえた上で、「恨」のもつ積極的な意味を、ニーバーの超越論的な人間理解から導き出したこと。そして最後に、無教会を日本における文脈化の成功例となすための建設的な批判が述べられていること。
使用されている文献も豊富で、内容理解も的確です。引用のしかたもよい。授業からのインプットも明らかで、学んだことがよく整理されています。
学生の書いた論文としては、実に模範的です。関心のあるすべての人に、無教会の関係者には特に念入りに、読んでもらいたいと思います。
・大西春奈 「ニーチェの賤民道徳と高貴な道徳――人間としての必要性とアジアでの必要性」 (MS Word: 50KB)
・大西春奈 「追加コメント」
<講評>
内面的な模索や格闘の痕跡がよく見えます。ニーチェの賤民道徳論から出発して、パクの「恨」論とソンの「アジアの民衆」論へと進んでいます。「恨」は、晴らされた後にもそれが存在したという事実は残るので、ニーチェの言う「高貴な道徳」とは異なる。だが、子どものような、あるいは白痴のような、ニーチェ的忘却を旨とするよりも、忘れずにこれを愛や赦しへと変えるところに、人間に固有の構造がある、という論旨です。
ニーチェからすれば、それこそがキリスト教の最大の欺瞞でしょう。しかし、イエスによれば、「他者の赦し」は「自己の赦し」に比例しています。つまり、他者を赦すことで、自己もまた癒されてゆく、という可能性が示されています。人間はそのようにして「赦す」が「忘れない」ことにより、人格を形成し、ちょうどカイヨワ族の成人儀礼のように、大人になってゆく。つまり、「大人になる」ということは、良くも悪しくも「恨を積み重ねる」ということなのであって、それが「個」の厚みや襞といった人格の立体性をつくるのだ、という見解です。より広く読めば、ロールズの抽象的で存在論的に無規定な人間像に対して、人間を "situated" ないし "encumbered" な共同体的存在と見るサンデルの正義論にも通じています。
最後に、他宗教との相互乗り入れを是とするソンの神学から学びつつ、「祈り」の宛先が特定の焦点をもたないことがあり得る、と論じられているのも興味深い点です。ひところ、大江健三郎が「信仰をもたない者の祈り」というフレーズで語っていたことです。授業では、水平関係の破れが取り返しのつかない不可逆の事態に陥ったとき、人はどうしても垂直関係に目を向けざるを得なくなる、というディスカッションがありました。よく学び、よく咀嚼し、よく文章化してあります。
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