2005/11/29

 今回こうして自分の書いたものがこのように読んでもらえるような機会に恵まれて、嬉しく思っています。聖書を初めて手にしたのも、開く事もこの大学に入り、キリスト教概論の授業を受けた時しかなかった私がどうして「神学研究」という授業に惹かれたのか、自分でも不思議です。

   けれどこの授業は、他人とは共有することは難しいと諦めていた自分の思考が必要とされ、また他人と共有できる場所でした。そしてそれこそ私が求めていた「学び」の形でした。

 私にはキリスト教の背景が殆どといっていいほどなかったのですが、そんな私にも、正面からまっすぐ向き合えば神学はそれなりの解答を私に与えてくれました。それはもしかしたら全くキリスト教的なんかではなかったかもしれません。けれど、そこにキリスト教があったのは事実です。

 宗教というものは何かの結果ではなく、人々が人生の中で大切な物を自分の手の中に握り締められるように手助けをしてくれるようなものの気がします。そして私たちに人生の厚みを与え、命の密度を更に濃くしてくれるものではないでしょうか。

 様々な神学者や哲学者の大胆奇抜な意見は、それ自体に誤りがあったとしても、それは必ず新たな真実を私たちの前に提示してくれるきっかけになることが本当に興味深かったです。ニーチェやソンは正にその人たちです。森本先生がレポートは大胆に間違えても構わないとおっしゃられ、そして私もこれから先に、たとえそれが奇抜で間違えている意見であったとしても、それがもしまた新たな真実を紡ぎ出すきっかけになるのなら、と思い自分の頭で考え抜いた過程を不完全ながらもそのままレポートにしました。他の方に読んで頂けたり、数年後の自分が読んだ時に、その人達やその時の自分と融合してまた新たな真実が紡ぎ出せたらいいなと思います。

 私にはこの繰り返しが神学を通して学んだ、最も大事な事でした。これは他者との繋がりを自然に生み出し、そしてこの繋がりは時間の枠をも超えてしまうなんて、ちょっと感動的です。このタテとヨコの繋がり…何かに似てるなぁと思いました。−キリスト教の水平関係と垂直関係です。

 こうした積み重ねが私たちにキリスト教の固有性と同時に様々な世界の真理を見せてくれる気がします。興味深い授業をありがとうございました。

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