HRe250: 「キリスト教倫理」 (Autumn 2006)

「キリスト教倫理」っていったいどんな授業なのだろう、と訝る学生たちのために、ご本人の了解を得て、あるメールのやりとりをここに掲載します。神学校でもない一般大学で、このような授業をもつことの意味や目的を考えさせてくれます。よく考えたメールをくださった青野さん、ありがとう。


2006/10/03 19:17

先生

今日の授業は発言できなくて残念でした、すみません。
今日私は大混乱していたのですが、
それは、聖書を読むというキリスト者の根本的姿勢を、
自分がどのように行えばよいかわからなくなってしまったからです。

この本を読むにあたって、
キリスト者でない私は、神を信じる者として聖書解釈・批判を行えばよいのでしょうか。
!) としてという、本当でない意識で聖書に臨むことによって、
私は本当にこの本の内容を考えるのに必要な何かを満たしているのでしょうか。
少なくとも神様がアルということを、私は前提に考えなれば、
このクラスにいる意味はないですよね。
あ、少なくとも聖書を解釈するにあたってはということですよね。

私の考えていることがうまく伝えられなくてすみません。
とても個人的なことだと思ったので直接メールすることにしました。
とりとめもないメールですみません。
次の課題はがんばります。

青野 薫子(i08****)


2006/10/04 1:10

青野さん

あなたの感じていることは、
いつもこのクラスで終わりの方になってくると出てくる問いです。
いいえ、あなたのおたずねになっていることはよく伝わってきます。

結局キリスト教徒でない自分は、
聖書についてどう考えるかを、
自分のこととして受け止められないのではないか、
ということでしょうね。

でも、キリスト教徒だって信じ方はいろいろある、
ということが今日おわかりになったでしょう。
あんまりそこで線引きをしない方がよいと思います。

わたしはこのクラスを通して、
あなたがキリスト教は人間をどう考えるのか、
ということを学んでほしいと思っています。
性について、キリスト教はこう言っている、なんて
誤解だらけの通説が日本でもアメリカでもまかり通っている。
だから、それを根本に返って問い直す姿勢を学んでほしいのです。

それがリベラルアーツ(人間を自由にする学芸)だと思うのです。
通説からの解放。
それは、キリスト教徒もそうでない人も持っている通説で、
われわれを虜にしている通説。
それをぶっこわしたいですね。

それには、昔々に書かれた文書を
今なお意味ある規範として受け取るにはどうしたらよいか、
ということがわかっていないとね。
それが、キリスト教徒であろうとなかろうと、
いっしょに考えることのできることです。

あなたのメールは、個人的なものとしてとどめておきます。
でも、他の人にも教えたいくらいよいレスポンスです。
とても嬉しく思いました。

森本あんり



2006/10/04 19:29

先生

お忙しい中、早急なレスポンスをありがとうございました!!
なんだか私は、この授業の核にあるものを忘れてたみたいです。

キリスト教の人間論、「通説からの開放」、
そして私があの教室にいる理由リベラルアーツ。

わかりたいと願っているのに、どうしても疑ってしまう聖書に対して
私は少し怒ってたのかもしれません。(理不尽ですが笑)

聖書が不思議で仕方ありません。
すごく長くて意味不明なところがいっぱいあるのに、
本当に長い歴史の中で、本当に多くの人の形ある支えになってきた。
でもそれが現代という文脈で読まれる時、
ある人を不幸にする源泉になったり、ならなかったり。
私はそういうところを考えるために聖書を分析するんでした。

聖書というキリスト教の具体的細部を見つめながら、
もっと大きな目的と意識、視野を感じていなければいけないですね。
うまく言えませんが、先生のお言葉にじーんとしてしまいました。
引き続き考えます!!
本当にありがとうございました!

青野薫子

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