In Memoriam


 金澤正和君について、私の知る限りで、短く3点お話いたします。金澤君は、先学期と今学期、私のキリスト教史のクラスをとりました。彼からすればまったく当然のことですが、その間、一度も休んだことはなく、一度も遅刻したことはありませんでした。いつも一番前の席で、お母様とご一緒に、熱心に聞いておられました。

   金澤君は、第一に、謙虚な人でありました。彼には、クラスの中で十分に特別扱いされてしかるべき事情がありましたが、彼はそれを最小限にとどめたいという意思を常に明らかにしておられました。私の授業はテストも多く、提出物も何度かあります。私と彼は、Eメールという通信手段を使いましたが、それ以外はすべて他の学生と同じようにいたしました。それが、自分に課された人生の、責任ある生き方だ、というのが、揺らぐことのない彼の信念でありました。彼の答案は、私も受け取るとすぐに採点をしてしまうため、翌日にでも返せるのですが、他の人と一緒に返却するまで、手元に置いておきました。そのため、先週の金曜日も、彼に会っていながら、それを返さずにおり、ここにもっています。今となっては、それが彼の手に渡らなかったことが、少し残念に思えます。

 第二に、金澤君は、慎重な人でありました。メールでテストの答案が送られてきた後に、必ず、「今答案を送りましたが、届きましたでしょうか」という別のメールが届きます。彼としては、通信手段がメールに限られていたため、慎重の上に慎重を期していたのだと思います。しまいには、私も、「君のことは十分信頼しているから、確認のメールをくれなくても大丈夫、もし届かなかったら、私の方から確認するよ」と返事をしました。しかしこれも、考えてみると、メールという通信手段に頼っていた彼の、小さなコミュニケーションのチャンスだったのかな、と思います。それを断ってしまったことになり、これも私にとっては、少し悔やまれることになりました。

 しかし、今日、みなさんに、特に申し上げたいのは、第三のことです。金澤君は、何よりも、勇敢な人でありました。彼が抱えていた病は、明晰な意識を保ったまま、自分の肉体がゆっくりと衰えてゆくのを、静かに見つめつつ過ごすという、苛酷な病であります。自分に残された日々が、少しずつ短くなり、やがて終焉を迎えるであろうということを、日毎に思い知らされつつ、生きる病であります。彼は、怯むことなくそれを自分に引き受け、真正面から勇敢に立ち向かってゆきました。

   おそらく、ICUに入学した時、彼も、ご家族も、もしかしたら、卒業という日を迎えることができないかもしれない、という予感はあったと思います。しかし、彼は、それによって人生に妥協することを、自分に許しませんでした。自らに与えられた限りの道を、精一杯走り抜くことを選びました。彼が選んだのは、この大学に学び、授業に出席し、勉強をする、という道でありました。彼の体力からして、それ以外のことはほとんどできなかったと思います。彼は、自分に残された時間のほとんどすべてを、このことにつぎ込みました。そうまでして、彼は学ぶことを選びました。

   金澤君は、私が一人の教師として、あの授業で教えられる一切のことよりも、さらに大きなことを、私たちに教えてくれました。それは、大学で学ぶということが、あらゆる他のことに優って、自分の命を燃やし尽くして続けても、なお意義あることだ、ということであります。その知識を、やがて何かに生かすために、というのではありません。たとえそれが、途半ばに尽きるとも、たとえそれが、学ぶだけに終わるとも、なお、学ぶということは、この上なく価値あることだ、他の一切を差し置いても、自分の体力をすべてそれにつぎ込んでも、なお追求するに足る喜びだ、ということであります。

   そのことを教えてくれた彼に、今日、この場に出席している学生のみなさんと共に、感謝を申し上げたいと思います。このような学生を迎えることができたことを、私は心から嬉しく、誇りに思います。ご遺族の上に、ことに正和君とともに学び、すべての労苦と喜びをともにして来られたお母様の上に、われわれの語り得る言葉を越えた、神の言葉による慰めをお祈り申し上げます。

2005年 1月 13日

森 本 あ ん り

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